創作活動ブログ 器用貧乏

なんでもそこそこできるけど極めるほどハマれない、器用貧乏な筆者が創作活動における成長の過程を貼っていきます。

家事・育児の経済学(子育てザッカンへ移動済)

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 私は大学で経済学を学んだのだが、「機会費用」の考え方を知ったことで、見える世界が少し結構変わった。

 例えば人件費一つをとっても、機会費用の考え方から、能力のある人と能力のない人で人件費は変わってくる。まあ当たり前じゃん、と思われるかもしれないが、「主婦」というものの存在を、経済学的に考えるとちょっと面白い。

  例えば、めちゃくちゃ頭が良くて仕事をすれば有能な人が主婦をやっている場合、その人がもし仕事をしていれば社会に生み出したであろう価値が、主婦という道を選択したことによって失われていることとなる。これは社会的な「損失」であり、これを「機会費用」という。もちろん、主婦としても、家事・育児などに従事することによってそれなりの価値は生み出しているのだが、家事・育児はほぼ能力に関係なく誰でもできることなので、人材としてその能力を無駄にしていることになる。

 ただし、夫が妻を超えるほど有能で、妻が家事・育児を全て担ってくれているおかげで夫が仕事に注力することができ、社会的にめちゃくちゃ高い価値を生み出しているとしたら、若干話は変わってくる。妻が働いて夫が家事・育児を担うよりも、夫が働いて妻が家事・育児を担う方が社会的には「得」であるということになる。

 数字を用いて説明してみる。 妻が仕事をしたら社会に生み出すだろう価値が100、夫が仕事をしたら生み出す価値が200、主夫(主婦)の場合は生み出す価値10だとしたら、夫が働くことが社会的に一番効率的で、妻の機会費用も含めたトータルの社会的な価値は110(【夫の生み出す200】ー【妻が主婦をやることで失った価値90】)ということになる。

 たぶん、これまでの日本社会は、上記のように、夫の方が妻よりも有能(社会的に生み出す価値が高い)という仮定を置いて設計されていたのだと思う。だから夫が働き、妻が支える、が一番効率的だとみんなが信じていた。

 でも、そうでもないんじゃね?って皆気づき始めている。

 上記の経済学的な機会費用の考え方からしたら、夫婦のうち有能な方が働くってことでいいんだが、そのほかにも、第3の道として「他人が家事育児をやる」という方法がある。つまり保育園やベビーシッター、お手伝いさんなどの存在だ。 保育園がより効率的に、少ない人件費で効率よく多くの家庭の育児を担うことができれば、共働き世帯が社会により多くの価値を生み出すことができる。

 結論からすれば当たり前のことを言っているにすぎないが、機会費用の考え方を使って論理的に考えておくと、母親は子どもと一緒にいるもんだ、とかいう感情論に偏る恐れがなくなり、議論がしやすくなる。

 

 さて、長い前置きは置いといて、このように経済学の考え方を家庭に持ち込むと面白い。今回考えたのは共働き家庭が家事育児を分担する画期的なシステム、その名も「家庭内通貨」。 

 考え方は簡単、いろいろな家事・育児にすべて価格をつけて、お互いの所得から労働への対価を支払い合って、お小遣いにするというものだ。

 つまり、

 ・朝食作り・・・400円

 ・弁当作り・・・300円

 ・夕食作り・・・600円

 ・子どもの食事補助・・・300円

 ・食器洗い・・・300円

 ・おむつ替え(小)・・・200円

 ・おむつ替え(大)・・・500円

 ・洗濯・・・400円

 ・風呂洗い・・・300円

 ・掃除・・・400円

 ・寝かしつけ・・・200円

 ・ゴミ集め、ゴミ出し・・・200円

 という具合で価格をつけ、これらをやった方がやらなかった方から労働の対価としてお小遣いがもらえるシステムである。

 これによって、家事育児は、夫婦の交渉により、所得を伴って完全に公平に分担される。家庭を顧みず、平日飲み歩いたり、休日ゴルフに行ったりすればするほど、どんどん小遣いが減っていく仕組みである。

 上記の価格表は一つの例であるが、ぜひ試してみたらいかがだろうか。